Berumonta’s blog

猫が好き過ぎてたまらないネコバカの半生を綴っていきます

その1匹へのこだわり

ここ数日、天候がすぐれません。

話の流れや時系列が前後してしまいますが、

昭和の児童であった[小学生と呼ばれる]頃の話を

少しばかりしてみます。

よろしかったらおつきあいください。

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私は長男、下に妹。年の差は4つ。

0歳〜5歳位?の記憶など、ハッキリとは覚えていませんが、

写真など見ると思い出すような、そうだったかな〜という程度の記憶。

以下の思い出話は6歳くらいから8歳までと、中学の3年の一時期と、

卒業後の社会人になってからのほんの少しばかりの出来事です。

 

 小学校に入る前の頃には、生まれてまだまだ手が掛かる赤ん坊の妹が

 いたために、お風呂にはいるのは祖母と必ず一緒でした。

 入浴の順番が決まっていて、一番風呂というのが父親、それから祖母と私、

 最後に母親と妹といった順番でした。

 私はお風呂から上がると急いで体や頭髪を拭いて、白黒の真空管のTVの前に

 座ってじっとテレビを観るのが好きでした。

 祖母は、腰が少し曲がっていたと思います。

 隣の部屋で長い髪を乾かしたり、鬢付け油と呼ばれるものを時間を掛けて

 髪につけていたりしていたように覚えています。

 今から思うと、「仕事で嫌なことでもあったのか」と思わないでもありませんが、

 不定期に、父親がテレビを観ている私のところへやって来ていました。

 胸ぐらを掴んで文句?愚痴?を言ったり、小馬鹿にしたりするような事、時に

 押し倒されたり・・わざわざ誰もいない・・事を計算して(?)やって来ていました。

 時折祖母がそれに気がついて障子を開いて、『そんな小さな子供に何を言っとる?!』

 と間に入って来てくれていました。

 そうすると、『チッ』と舌打ちして、隣の部屋へと父は消えていきました。

 

こういった日常を、祖母が父親の血縁のある兄妹たちに話をしていたみたいです。

一番下の叔母さんと父の姉などが、なぜだか私に気を使ってくださっていた気が

子供心に薄々感じてはいたものです。

こっそりとお金を私に渡しては・・・『これで好きなものを買っていいよ』

『誰にもいわんでよかけんね』『お菓子の空き袋は見つからんように捨てときね』・・

という事も。

そこは子供でしたから、5円や10円くらいの駄菓子が夢のように沢山買えるので、

びっくりしてとても嬉しくなったものです。

 

横道にそれますが、この時代の子どもたちの多くは「お年玉」は母親預かり・・

で返却されることは無かった・・というのが日本全国で当たり前だったような・・

そんな時代でした。

家は藁葺屋根(後にトタン屋根)、個人の部屋というのはありませんでした。

黒いダイヤル式の電話も、ありませんでした。

雨が降れば雨漏りもしていました。

他の同級生たちの家に遊びに行ったりしていくうちに、自分の家庭が

貧乏で家も見窄らしいものである事に気がついてはいました。

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私が小学校の3年の時に隣のクラスに転校生がやってきていたみたいで、

その子とは誕生日が近かったこともあって自然に仲良くなりました。

その子の生い立ちは後に徐々に知っていく事になりますが、

この時点ではS県からこっちに越してきたという事しか知りませんでした。

 

 その子は父親が心臓発作で幼少期に亡くなり、祖父も亡くなり、

 お母さん一人で育てられていたのだと思いますが、再婚の話の事で

 この自分が産んだ男の子の事を施設に預けて再婚をされたみたいです。

 理由は再婚相手の側に、既に男児が一人いたためのようです。

 施設から逃げ出しては、生家に歩いて帰って『僕のお母さんはどこ?』といっては

 泣きながら一人で親を探しまわっている事が度々あったらしく、今でいう

 児童相談所的な役所の窓口を経由して、血縁のある親族との話がまとまって

 私の住む県のM町へ引っ越してきたみたいです。

 こういった話は、30年以上も経過してからお話を聞くまで知りませんでした。

 この転校生の友達とは、この友達自身が肝臓癌でなくなるまでずっと付き合いは

 続くことにあいなります。

 

  再婚相手の男性との間に娘さんを2人もうけ、再婚前の男児1人と

  再婚後に娘が2人というしだいです。

 

  長女の結婚披露宴を待たずに、肝臓癌でなくなってしまいました。

  『お兄ちゃん、披露宴に来てくれるって約束したじゃない』といって

  泣き崩れる姿と、大人の事情があったとはいえ、息子を捨てたも同然の母親。

  自分でお金を稼ぐようになってから、毎日あびるようにお酒を飲んでは、

  毎日の憂さ晴らしをしていた友人。

  中学を出て社会人となって、働き続けるしか生きていく道がなかった。

  

  人生がたったの39年という、それはそれは短い人生だったと思います。

  

話がまた前後しますが、私の父親のモラハラパワハラは、母親にもずっと向けられ

続けていました。

『俺は学校給食の米粒のひと粒も食っとらんぞ』と言って、給食費の支払いを

渋ったりしては母親を困らせたり、『勉強するのに電車代がなぜいる?』

『俺は高校とかには行っとらんぞ』『行かせて学者にでもさせるつもりか!』

といっては、母親を土下座させてはイキっていました。

それを壁1つ隔てた隣で小学生の頃からずっと聞きたくなくても聞こえるので

辛くてたまりませんでした。

そんな事をして、私に高校の受験料などを受け取って私にくれていました。

祖母も自分が産んだ子供ながら、呆れ果ててはいたみたいです。

 

地元の公立高校へ受験、合格はしたのですが・・・・。

高校の3年間、心配させないために学校へは通いました。

ただただ退屈な3年間。本当に行きたかったのは工業高校でした。

こっそり隠して貯めていたお年玉で、自分へのご褒美に・・・

腕時計をもってなかったので、K市の有名な時計店へ向かいます。

皆と同じ様に秒針がピョンピョンと一秒単位で動く、電池で動くというすごい時計。

電池が切れるまで止まらない。月に15秒しか狂わないらしい・・・という時計。

それが欲しかったのですが、あいにく手元にあったお金では買えずに電卓会社の

当時で珍しいデジタルを(安くて予算の範囲で買えたのがこれくらい)買いました。

ただ、祖母に貰っていたお年玉は腕時計を買ったよと、報告したらその日のうちに

この話が父親の耳に届いてしまって、私が風呂に入っている間に持って行かれました。

『お前はいらんやろ、部屋に壁掛け時計が掛かっとるやろ、俺が貰っとく』

たった半日のMy Watch でした。

 

 それから5年ほどして母親は胃癌で入院、診察・入院・検査後から開腹手術、

 それから3ヶ月後の8月の暑い日に、生まれ育った故郷の隣町であるJ町の

 とある病院で息を引き取りました。46歳でした。

 開腹手術の際での事なのですが、既に手の施しようがないくらいに転移が

 進んでいたようで、開いて閉じて終わり・・・だったみたいです。

 いろんな悩みごとを一人で抱え込んで、誰にも相談できず苦しんだりしていた

 のだろうと思います。

 

 私のこれまでのこういった体験が、少なからず今の自分の価値観、人生観、

 ひいては他者との距離のとり方や付き合い方の上手い下手などなどの

 下地となっている・・のかもしれません。

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私はあの子を(猫)探し出して、一緒に同じ部屋で家族という単位で

面倒をみてあげたい。

実際に再開しても「シャーシャー」と威嚇しあって、一緒に生活をするのは

お話にならない可能性が高いのは予想してます。

そうしたらそうしたで、部屋を別にしてあげれば良いだけの話です。

私は捕まえられずにいるあの1匹、その1匹を探し出して会わせてあげたいのす。

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おつきあいくださり、ありがとうございました。

猫の話ではなくて、すみません。